彼女の福音
伍拾 ― 冷たい雨に打たれて ―
それは、遠い、遠い記憶。
卒業式が終わって、クラスで飲み会をしていた時だった。空は灰色で、いつ雪が降ってもおかしくなかった。実際、その日は朝から刺すように寒かったことを覚えている。
「ねえ岡崎、その、最後ぐらい会いに行かなくていいの?」
俺にしか聞こえない声で、春原は聞いた。
「は?」
「いや、その……ほら」
春原が誰のことを指していたのか、すぐにわかっていた。強がってみようとも思ったけど、結局ため息とともに答えた。
「お前な、あいつともうどれぐらい話してないと思ってるんだよ?あいつだって……もう俺のことなんか忘れてるさ」
俺は笑おうとした。うまくいかないもんだな、と改めて実感させられる。そう言えば、最後に本気で笑えたのはいつだろうか。覚えていないような気がする。
「そう……かな。まあいいか」
「ああ、もういいさ」
そう言って、俺は言いそうになった愚痴と共に紙コップのジュースを飲み干した。甘いリンゴの味のはずなのに、ひどく苦い感じがして俺は少し咳き込んだ。
「そういうお前こそ、誰かに言いたいこととかないのかよ」
「え?僕?」
急に動揺する春原を見て、ああこいつも誰かいたんだな、と思った。
「い、いやいるわけないだろ」
「ホントか?何かすげえ動揺してるけど」
「……いいさ。どうせ言っても何も変わんないよ。僕といても、そいつは楽しい、なんて思えないしさ」
「ま、ヘタレだからなお前」
「そうそ……ってえ、最後までそうなりますか僕!!?」
そうして寂しさを忘れるように俺たちは笑った。少し苦い笑顔だった。
冷たい感触が頬を刺激して、俺は我に返った。ぱつ、ぱつつ、と音を立てながら、雨が地面に当たる。目の前では、春原が俺を睨みつけていた。その視線を受けて、俺も目を鋭くさせた。
俺たちは今、小さな公園にいる。そこの誰もいない広場で、向かい合っている。朝から空模様は怪しかったが、とうとうそれも限界にたちしたようだった。髪が徐々に湿っていくのを感じながら、俺は黙って怒気を孕んだ視線を春原に送り返す。
俺が今朝、春原と会おうと持ちかけた時、向こうも何の話なのか大体解かっていたようだった。でも、言葉を交わしても何も得られず、そしてとうとうどちらともなくこうなった。
「なあ、何か言えよ」
俺は沈黙に耐えきれずにそう言った。なあ、お前どうしちまったんだよ?何で俺とお前、こんな馬鹿な事しなきゃなんないんだよ?俺ら、仲間だろ?なあ、今、お前何考えてるんだよ?教えてくれよ。
「何だよ……何で僕が岡崎に何か言わなきゃいけない訳?」
お前と僕は違うんだから、関係ないんだから、ほっといてどっか失せろよ。
暗にそう言われているような気がして、頭の中で何かが弾けた。
気づけば、俺は春原の脇腹に拳を叩き込んでいた。
「てめえっ!」
そのまま馬乗りになる。
「てめえ、何ヘタレてやがるっ!!何やってんだよっ!」
胸倉を掴んで怒鳴りつけた。
不意に、昨日の夜の雨に打たれて泣きじゃくる杏の顔を思い出した。
智代の腕の中で震えながら、泣きじゃくりながら何かしきりに呟いていた杏の姿を思い出した。
「しっかりしろよっ!杏の想いに応えてやれよ!お前、あいつの彼氏だろっ!!」
「放せよこの野郎っ!」
不意に頭が揺れて、右の目の辺りが熱くなった。のぞけりながらも、何とか立ち上がる。そして立ち上がった春原を見据えた。
「何だよ。岡崎に何がわかるってんだよっ!」
「わかるさ!お前ら二人とも、俺の大事な仲間じゃないかよっ」
尚も殴りかかろうとする春原の胸を蹴った。そのまま後ろに下がって構えなおす春原。
「お前、知ってるか?あいつ、泣いてたんだぞ?ずっとずっと、ズタボロになって泣きながらお前の名前ばかり呼んでたんだぞ?」
一歩踏み出して、春原の胸を殴った。
「それくらいお前のことが好きなんだよっ!!」
後ろに下がりながら、春原が体を曲げて咳き込む。
「……そんなに杏のこと、解ってるんだったらさ」
不意に春原がキッと俺を睨んだ。
「岡崎が救ってやればいいじゃないかっ!」
簡単な作業だ、と杏は思った。
昨日のうちに、当分必要不可欠な服や荷物はリストアップしてある。あとは、そうじゃないものを買ってきたダンボールに詰めて、ガムテープで閉じてしまえばいい。それだけだ。
うん。簡単な、作業。
いつでもここから出ていけるように。機会が現れたら、即ここを引き払えるように。
アルバムが見つかった。パラパラと捲ってみる。これは智代と渚の三人で遊びに行った時の写真。あの時智代と二人で渚の恋人についていろいろと聞いてたっけ。これはことみの家でバイオリンの演奏会をやった時の写真。ご丁寧にみんなの笑顔の写ったビフォーと、半ば放心しているアフターの写真まである。少し笑みがこぼれた。
次のページに何があったか覚えていたから、捲る前に段ボールに入れる。そしてため息をついて、次の物を押し入れから出して箱に詰める。そんな時、何かが杏の手に触れた。
手に取ってみると、それは銀細工のペンダントだった。どこでもらったんだろうとしばし考え、そして杏は思い当たった途端に視界がぼやけるのを感じた。
あいつが、前に誕生日にってくれたんだった。一緒に祝おうと言われたのであいつの家に行ったら夜遅くに帰ってきて、玄関でぶっ倒れたままでも精一杯の笑顔で渡してくれたんだった。
それが限界だった。精一杯狭めようとした視界が広がっていく。
あの毛糸の玉は、あいつにスカーフを編んだときの残り。
まだベッドの脇に置いてある時計は、二人でデートした時に買ったもの。
たった今しまったアルバムには、数え切れないほどの写真が、楽しい時間が、二人の笑顔が詰まっていた。
押し込めたものがまた押し寄せてきた。デートに遅れてきたあいつのこと。キスしたこと。思う存分笑ったこと。抱きしめたこと。抱きしめてもらったこと。料理を褒めてもらったときのこと。夜を一緒に過ごしたときのこと。何もやらずに二人で休日をだらだらと過ごしたこと。
それを握り締めて、歯を食いしばって、杏は泣いた。あの頃が輝いて見えて、その代わりに今の自分がこんな暗い部屋で一人でいて、それがどうしようもなくて、寒くて、痛くて、惨めで。
そんな時、携帯が鳴った。初めは幻聴かと思っていたが、それが幾度も部屋にこだまするのを聞くと、杏は深呼吸をすると、それを取った。
今度は目の横を殴られた。世界がぶれて見える。でもそれどころじゃなかった。俺が、杏を幸せにする?揺れる頭の中で、その言葉が響いた。
「何を……何言ってんだよお前」
「岡崎なら、何とかしてやれるだろ?智代ちゃんだって岡崎のおかげで桜は守れた。椋ちゃんだって岡崎と一緒に説得したから勝平と一緒になれた。渚ちゃんだって、有紀寧ちゃんだって、お前が今まで笑わしてきたんじゃないかよ」
衝撃。口の中に鉄の味がした。思わず数歩下がる。
「だったら何でお前、杏を笑わせてやれないんだよっ!何で一番長い間一緒にやってきた杏を救ってやんねえんだよっ!」
噛みつかんばかりの勢いで、春原が俺に迫ってきた。
「決まってる、だろ」
殴られながらも、俺は拳を突き出した。
「杏は、杏を救えるのは、お前しかいないからだよっ」
春原がくの字に体を曲げたところを、体当たりして二人で倒れた。
「いいか、勘違いするんじゃねえぞ。杏が好きなのは、お前なんだよ。俺なんかじゃない。どっかの馬の骨でもない。藤林杏が今一番会いたいのは、会って話をしたいのは、他の誰でもない、春原陽平なんだよっ!」
組み伏せて耳元で怒鳴った。次の瞬間、反射的に閉じた瞼の裏で、また白い閃光が爆ぜた。よろよろと立ちながら、また対峙する。ぺっ、と口の中の血を吐きながら、俺は肩で息をした。
「一つ聞かせろよ」
「あ?」
怪訝そうな顔で、春原が睨んだ。
「お前はどうなんだよ?お前は杏のこと、好きなのかよ?」
視線を伏せて口ごもる春原。
「……僕は、杏を好きになっちゃいけない。そんな資格、ないんだ」
「は?バカかお前。そんなこと聞いてねぇよ。俺が聞いたのは、お前が杏のことを好きなのかどうか、それだけだ」
「それは……」
なぜかそれが無性に苛立たしかった。
お前な、そんなところで躊躇するなよ。いい加減、はっきりさせやがれよ。
「答えろよ!」
殴りに行こうと一歩踏み出したところで、カウンター気味にパンチが顔に当たった。足がぐらついて崩れる直前に、俺は目をかっと見開いた春原の顔を見た。
「好きに決まってんだろっ!!」
後ろに倒れ込んで、地面に背中を打ちつけた。そのまま馬乗りにされて、顔を殴りつけられる。
「ああそうさ!僕はあいつのことが好きだ!好きで好きでしょうがねえんだよっ!」
言葉の一つ一つの痛みを代弁するかのように、拳が降り注ぐ。しかしそれもやがて止んだ。
「ずっと好きだった。一緒にいられて、心底楽しかった。これからもずっと一緒にいられたらって、そんなこと考えたりしたさ。頭おかしくなっちまうほど好きで、時たま会社でもぼっとすんなって怒られた。ああそうさ、よくあったさ、ふと気がついたらずっと杏のことしか考えていなかったって事。僕は、杏が好きだ」
誰かに懺悔するかのように、静かに泣くように、ぽつりと春原が言った。雨の音が激しくなる中、それでも俺はそのか細い悔悟の言葉を、その嗚咽を聞いた。
「春原……」
「だけど、僕じゃ……僕なんかじゃダメなんだ」
その想いをかき消すように、頭を振って強い口調で言った。
「何で、だよ」
「僕は、お前みたいにすごい奴じゃない。僕だけじゃ、誰かを幸せになんて出来っこない。僕は、杏を幸せにできない。所詮そんな奴じゃないだろ、僕って。杏ってね、すごい奴なんだぜ?みんなにすげぇ慕われて、見上げられて、みんなを引っ張ってくんだぜ?そんな奴が、僕なんかと一緒で幸せになれる?なれないよ。幸せにできる自信、どこからくるわけ?できない。できないよ」
不意に、俺の顔を濡らす雨が熱く感じられた。影になっていたから、項垂れた春原の表情は見えなかった。それでも、熱い雫は俺の顔に降り注ぐ。
「お前、馬鹿だろ」
呟くようにそう言った。
「……何だよ」
「馬鹿だから馬鹿っつってんだ。馬鹿」
ずきずきと痛む体の奥底から、熱い何かが迸る。指先に、体に、つま先に力がこもる。
「お前、あいつと付き合い始めて三年になるんだろ?それでも見えてなかったんなら、お前はものすげえ大馬鹿野郎だよ」
「岡崎、何を……」
「お前な、お前と付き合って三年間、あいつどんな顔してた?悲しい顔してたのかよ?なぁおい、辛そうに見えたかよ?」
「……そりゃ……」
「お前といた時、あいつは笑ってたぞ。すごくいい笑顔で、笑ってたんだ。わかるか?」
ぐっと春原の胸を掴み、その顔に怒鳴った。
「お前といるだけでっ!あいつはもう充分幸せだったんだよっこのド馬鹿野郎っ!!」
そのまま突き飛ばした。さすがにもう立ち上がる元気はなかった。でも春原も地面に大の字になって倒れていた。白い息が、鉛色の空へと流されていった。
「そんな簡単に見限るなよ。まだ追いついていないと思うんだったら、頑張ればいいだろ?こういう俺だって、智代には全然追いついていないんだからさ」
「……え」
「いつか、言ったことがあるんだ、智代に。お前って本当に俺には勿体ないよなぁって。しみじみとさ。そしたらさ」
よく覚えている。二人で珍しく休日を共に過ごせた日の終わりだった。お互い疲れているのに、それでもずっと俺のためにいろんなことをやってくれた智代。夕飯が終わった時に、ふと漏らした一言だった。
「そしたら?」
「滅茶苦茶怒られた。涙まじりで、絶対にそういう風に思わないでほしいって。あいつの居場所が、俺の隣以外にあるようなことは、口が裂けても言うなって、すげえ剣幕で怒られた」
そしてその時思った。頑張ろう、今まで以上に頑張ろう、と。いつか二人で歩幅を合わせて歩けるように、と。
「杏から勝手に居場所、奪うなよ。勝手に自分を信じるの辞めるなよ。まだ杏はお前のこと信じてくれてるんだし、な」
しばらく黙って灰色の空を眺めていた。雨が、熱を冷ましていく。耳に聞こえるのは、心地よい雨音と、熱い鼓動。
「岡崎」
「ああ?」
「また、全部言わなきゃいけないんだよね」
「また?」
「ほら、さっきの」
「まあな。それぐらいしてやれよ。俺なんか智代に毎日言ってるぜ」
「そんなの聞いてないよ。あーくそ、すっごく緊張してきた」
「このヘタレが」
「へへっ。今回ばっかりは、何も言えないや……」
遠くで、足音が聞こえた気がする。でも振り返るのも億劫で、俺はそのまま寝転がって目だけ動かした。
あ。
「でも、マジで言えるかな……何つーか、すげえカッコ悪く逃げてきちゃった感じなんだけど」
俺は顔をあげて、にやっ、と微笑んだ。
「春原」
「あ?」
「そんな心配しなくていいみたいだぞ」
「どうしてさ」
春原が上半身を起して、硬直する。
「だってさ、もう言っちまったも同然みたいだし」
俺と春原の視線の先に、彼女は傘を持って、立っていた。